高麗茶碗と大和茶碗

   一

 同じく茶碗と人は呼ぶ。何れにも無上な美しさを人は感じる。「井戸」を

讃えて又「楽」を讃える。だがそれでよいものかと私は問う。どの品でも名

器と呼ばれるほどのものには何か取柄があろう。だが私はそんな所に見方を

止めたくない。取柄ぐらいに慰められては哀れではないか。深いもの浄いも

の静かなもの、美しさの中に進んでそれ等の性情を求めよう。それに応じ切

れる器となら手を握ろう。茶碗を眺めて私はかく考える。


   二

 どうあっても対比である。明らかな差異である。同じく茶碗とはいうが、

生まれが違い育ちが違う。高麗物と和物とを前に見て、私はそう想う。この

差別を朧げにしておいてよいものか。多くの茶人達はこれに問すらかけない。

かける要がないというようにさえ見える。このことを明確にするのは茶道を

守る所以ではないのか。近時この道が廃れたのは、正しく見る者が絶えたか

らではないか。だから正しい見方が却って奇異に響くのである。奇異と思わ

れても区別すべきものは区別しよう。何も段位をつけるそのことに興味があ

るのではない。ここでものの見方に就いて、作り方に就いて、考え方に就い

て、浅からぬ真理を貰うからである。問題は好個の問題である。


   三

 茶碗は三様に分れる。作られた国々の名によって、「唐物」、「高麗物」、

「和物」と分ける。だが唐物は天目一種で多少青磁を加えるぐらいであるか

ら、暫く除くとしよう。或は前二者を一つにして「渡物」と呼んでもよい。

併しその「渡物」の茶碗では高麗が殆ど凡てを占めるから、高麗物、和物、

この二つで凡てを代表させてよい。而もこの二つを比べるのに、一つは「井

戸」を、一つは「楽」を例に採るのが至当であろう。高麗物では「井戸」が

第一と云われ、和物では誰も「楽」を推すからである。

 どこが違うのか。只国が違うぐらいなら、問うまでもない。風が異なるぐ

らいなら当然なことに過ぎぬ。だがもっと違うのである。本質を異にするの

である。地理の差や外観の差は、このことに比べれば小さなものに過ぎない。

そんなにも違うなら美にだって変動があるはずである。只左右があるばかり

でなく、軽重の差が生じるわけである。だから二様の茶碗を一列の茶碗と見

ることは出来ぬ。


   四

 只対比だというだけでは不充分である。反律とさえ考えられてよいのであ

る。極は極を呼ぶから、至り尽くせば二であって而も一つに帰すかも知れぬ。

併しこんな理念が果たして現実の品物に示されているであろうか。悲しい哉、

未だ究竟の位置には甚だ遠い。見る者が見れば見誤る筈はない。私は直接品

物を呼ぼう。そうして各々にどんな性質があるか、どんな現れがあるか、そ

れをとくと吟味しよう。吟味するに足りる事柄だと私は想う。特にこれで美

への道筋が明らかにされるのであるから、重要な査定である。裏から見れば

是で幾多の曖昧な点が修正を受けるであろう。


   五

 さて、誰だってこのことは知っている。高麗茶碗は元来茶碗ではなかった

ということを。(ここで「高麗」というのは時代への名ではなく、国への呼

び方である。だから朝鮮というに等しい。支那を「唐」と呼ぶのと変わりは

ない。又ここで茶碗というのは抹茶の茶碗を指すのである。茶碗にはその他

色々ある。汁茶碗、飯茶碗、湯呑茶碗等)。茶人が呼んで高麗茶碗というの
                       ゲボン
は、実は抹茶のために出来たものではなく、もっと下品の飯茶碗なのである。

茶人がそれをとり立てて抹茶に用いたというに過ぎない。だからその名だた

る茶碗には例外なく二つの異なる生涯がある。前半生は飯茶碗、後半生は抹

茶茶碗。この歴史を忘れてはならぬ。

 今は紫の褥や金襴の衣に温かく包まれて、幾重の箱に納まるあの高麗茶碗

は、元は貧しい庶民の日々用いた粗末な食器に過ぎなかったのである。だが

それに無上の美しさを感じたのが初代の茶人達である。ここで千金をも価す

るまでにそれが変わるのである。ここに凡ての不思議が起る。あり得べから

ざることが白昼に起る。

 飯茶碗の作り手は名もない朝鮮の工人である。だが抹茶茶碗に創り変えた

のは、名も高い茶人である。私達は後者の並々ならぬ眼識を讃えてよい。彼

等がいなかったら、器物は元のままの凡々たる飯茶碗に終わったであろう。

併し同時に次の真理をも忘れてはならぬ。若しそれが飯茶碗でなかったら、

抹茶茶碗とは決してならなかったであろう。このことこそ最も不思議な真理

である。読者よ、凡々たる食器が茶器として光ったことを記憶されよ。否、

それ等が凡々たる雑器であったからこそ、光が輝いたのだという所まで考え

ぬかれよ。これを見過ごす者は、美を見過ごすであろう。


   六

 転じて「楽」を見よう。或は仁清、乾山等、他の和物を例に選んでもよい。

これ等も茶碗ではあるが、彼等に転生はない。二つの生涯はない。始めから

茶碗である。茶礼に用いる茶碗として作られたのである。どうして平凡な飯

茶碗などであり得よう。それは最初から非凡を求める茶碗である。美術品の

誕生である。如何に和物が「高麗」とその生まれに於いて違うかは火を見る

より瞭かなことではないか。共に茶碗とは呼ぶが、その性情に似通いはない。

只茶を容れる形を有つということだけが等しいに過ぎない。こんなにも違っ

たものを、一と条で讃えては余りにも粗笨ではないか。美しさに当然食違い

が出てくる筈である。それぞれにもっと明確な批判が下されねばならぬ。


   七

 楽では、見る者と作る者とが一つである。或は見ることから作ることへ進

んだのが和物だと述べてもよい。作られてから後に見るものへ転じた茶碗と

は違う。「高麗」はそれである。逆ではないか。一方は鑑賞が製作を呼んだ

のである。一方は作物が鑑賞を招いたのである。最初から趣味で生まれたも

の、元来は実用で作られたもの、このけじめを消すことは出来ぬ。一つはど

こまでも雅器である。一つはどこまでも雑器である。

 だが読者はここで言葉の上から安価にそれ等のものの美的価値を決めては

ならない。趣味の豊かな雅器-かくいう言葉それ自身に美しい。あらゆる優

雅な内容がこれに連想される。だが用心せねばならぬ。趣味で作ったものが

どうしてすぐ美しさを約束するか。実用に終わった雑器-こう云って了えば、

芸術からは遠く響く、だが実用が美と背反すると誰が断定するのであるか。

果たしてどっちが美と結縁が深いか。よき茶人達は云う、「茶碗は高麗」と。

高麗物が第一だという意味である。正にそうだと私も云う。この逆説にもっ

と近づこう。


   八

 意識の作、無意識の作、この言葉で相対してもよい。若し無意識という言

い方に角があるなら、理解の作、本能の作とこう言い更えてもよい。「楽」

を省みてみよう。作る者、作らせた者は、どんなに美を考えていることか。

この形でこの色でと苦心する。程度がどうあろうと、兎も角美への理解や意

識で仕事がなされる。彼等は美しき茶碗をねらっているのである。工夫を凝

らしているのである。美の作為を企てている。出来上ればさわぎである。一

国の出来事とさえなってくる。彼等は茶人である。既に平凡な人間とは違う。

茶境に行いすます風流人である。たとえ作る者が職人であろうとも、作らす

のはいつも美を識る茶人である。

 だが「井戸」に帰るとしよう。場面が違う。眼に一丁字もなかった工人達

が浮かぶ。「茶」など嗜む暇はない。否、「茶」などてんで存在しない土地

である。美への知識など持ち合わせてはおらぬ。聞いたらさぞやまごつくで

あろう。だが彼等は作る。充分な意識は有たずとも本能で作る。だから作る

というより寧ろ生まれるのである。作らすのは実は彼等がかち得た力ではな

い。何か内に潜むものに導かれて働く。自からが作るというより頼って出来

る品と云ってよい。作った物だとてたかが雑器である。自慢などしても仕甲

斐がない。誰だって平気で同じようなものを作るからである。作ったものを

一々鑑賞等してはいない。手荒くすばやく作って了う。そうして無造作に売

り平気で使う。それで事がすむ。始めからそんなものなのである。如何に

「楽」とは性質が違うであろう。さて、出来上がった品を比べて、どっちに

勝ちみがあるか。茶碗は高麗に限る。これが結末である。


   九

 不思議な由来をもっと尋ねるとしよう。どのみち禅問答に会う。どうして

進んだ智慧が楽々と本能の作物に打ち勝てないのか。何として作家たるほど

の人が、職人の仕事に引け目をとるのか。どんな「楽」が「井戸」と充分に

太刀打ち出来たか。教えは繰り返して不知なる者の信心を讃え、知見に滞る

者の愚を笑う。知が悪いというのではない。知に終われば亡びるというので

ある。教えの例証となるものを「楽」に見ないわけにゆかぬ。意識の作の行

末は覚束ないのである。美しく出来ても、もっと深いものが他で易々と作ら

れている。「井戸」によい実例が見えるではないか。

 人は意識の小ささをもっと考えてよい。それのみが意識を大きくする所以

ではないか。その小ささを識るためには本能の作物をもっと怖れてよい。そ

れこそ世にも尊ぶべき敵ではないか。「楽」はまだ「井戸」への畏敬が足り

ない。


   十

 知は個人に属するが、本能は自然に属する。知は現在の力であるが、本能

は歴史の力である。本能は識らずして多くを識っている。本能は智慧にまさ

る智慧ではないか。「井戸」は匿れた驚くべき自然の智慧で出来るのである。

工人達の無学を笑うな。自然の叡智が彼等に味方している。彼等が識らずし

て美しく作るのに何の不思議があろうか。般若の偈にいう、「般若無知、無

事不知。般若無見、無事不見」と。「井戸」に般若の無知が働いているので

ある。美を知らなくとも美を掴んでいる。『信心銘』にいう、「多言多慮、

転不相応」と。美に多弁な「楽」にうたた相応ぜざるものを見ないであろう

か。美を知っていて美を逃がしている。「楽」ではこまる。私はそう想う。

茶碗を「楽」で語るようではなさけない。「楽」にはまだ業が残る。如何に

装うとも、見る者には見すかされるであろう。わざとらしさに厭きが来るで

はないか。茶碗を「楽」に止めるようでは茶人も心もとない。見るべきもの

を見届けていないからである。だが、翻って「井戸」にそんな業が見えるで

あろうか。決して無い。彼等に「大名物」の位を贈るのに何の不条理があろ

うか。


   十一

 とかく仕事に遊戯が残る。あふれる趣味から求めたものにしても、それで

押しただけでは仕事にならない。物を作るのはなまやさしいことではない。

順序があり修練が要る。「楽」の不覚は仕事がまだ素人の域を出ないことに

ある。素人くさい仕事ではないか。だから本焼までは手が出しにくかったの

である。せいぜい焼くに楽な楽焼でことをすませたのである。楽焼が茶碗に

適うというのは、あとからの口実と思える。成程、柔かで温かく、飲み心地

が又となくよく、手ざわりに言い難い嬉しさがあろう。併しそれは「楽」の

功徳であっても、美しさの極まりとは云えぬ。形にしても素地にしても釉に

しても本格の位を得るであろうか。その技は結局優雅な慰みというに過ぎな

くはないか。仕事らしい仕事となるであろうか。焼物道の上から見て、究竟

の法たることが認められようか。

 所が「井戸」は慰みでは出来ぬ。素人では出来ぬ。工人としての苦行が要

る。単調な終わりない繰返しが要る。力が要る。汗が要る。それは長次郎、

道入、光悦の知らない世界である、触れない世界である、出来ない世界であ

る。「井戸」は生活に当面した真面目な仕事である。玄人の手でのみ出来る

仕事である。どこか素人の技らしい楽焼が、品物として、「井戸」に及び難

いのは当然の理である。「楽」を賞めちぎる舌が「井戸」を賞めちぎっては、

「井戸」に気の毒だと私は想う。双方よいなどという公平な見方は何より不

公平な言い方である。凡て品物には段位がある。どれが神の御座に近いか、

そのことを曖昧にしてはすまない。


   十二

 どんな大名物の茶碗を裏返しても銘はない。「井戸筒」、「喜左衛門」、

「九重」、「小塩」、「須弥」、こんな勝手な名は茶人から拝領したので、

作人とは縁がない。高麗のものはどんなに名器であろうと、一から十まで無

銘である。どこの誰が作ったか、そんなことは分からぬ。分からないで沢山

な雑器である。粗末な飯茶碗である。だがこのことをおろそかにしてはすま

ない。無銘でよいという性質ほど賞め讃えてよいものは無い。だから初代の

茶人達は臆せずにそれを茶碗に仕立てたではないか。欠けたもの、歪んだも

の、引っ附きのあるもの、傷の入ったもの、それ等をも無性に有難がったで

はないか。どこからその美しさが湧いたのか。無名ということが慥かに一つ

の大きな泉である。何もこの世の凡ての無銘品がよいというわけではない。

併し大名物の一切が在銘でないということだけは熟知していてよい。無銘と

美しい器物とにはそんなにも血縁が深い。

 だが凡ての「楽」は在銘である。豊公が贈ったという金印に物を云わせる。

印が無い場合は、茶人達が代って何の某の作だとやかましく云う。のんこう

作、光悦作、道八作、何誰作、名だたる作人の名を呼ばないと気がすませな

い。それ等の凡てのものは落款に誇る。評する者も個性でその美を讃えよう

とする。だがこんな見方でよいのか。工芸では個性がどこまで価値を保障す

るのか。個性に美を托して了ってよいものか、個性の美が最後の美であるか。

これ等の問いが当然起こってよい。どうして個性を越えたものに美を求めな

いのか。人間の修業は吾れを越えることではなかったのか。自我に美しさが

あるなら、無我には一段と美しさが増そう。吾れと呼ぶもので美が終わるも

のではない。ここに「楽」の限界が生じる。見劣りがするのも当然である。

在銘のものより無銘のものの方が更に尚深く美に交わり易い。「井戸」から

醜いものを探すのは至難である。だが「楽」にはいやらしいものが如何に多

いことか。


   十三

 一つは質素な生い立ちである。価だとて殆ど無かったであろう。使われる

場所だとて汚れた台所であった。用いる者だとて貧しい人達である。だが多

いとか安いとか粗末だとかいうことで、ものの美しさを見逃してはならぬ。

質素なものは大方謙譲である。謙譲こそは尊い徳ではないか。人間に譬えて

見てそうであろう。貧しい器であったとしても徳に富むなら美しさに光る。

美は徳なくして美とはならないからである。あの簡素な「井戸」に限りない

美が包まれるのは必然ではないか。

 だが「楽」は違う。それは着飾った姿である。高価な品である。王侯や富

豪の手に渡るのである。貧しい者は購うことは出来ぬ。飯茶碗では無いので

ある。「楽」は「井戸」ではない。「井戸」ではあり得ない。

 富貴なもの必ずしも徳に欠けるとは云えぬ。だがとかく贅沢なものが蝕ま

れ易いのは法である。富めるものは天国に行き難いと聖者は教える。このこ

とに誤りはない。「楽」は美しさに結ばれ難い事情のもとで育つのである。

ここでよいものが生まれないと断じることは出来ぬ。だがこの僥倖を便って

何を「楽」に待とうというのであるか。望みは確かでない。「楽」には多く

の病いがある。


   十四

「井戸」に驚いた茶人達は自からの間で茶碗が生みたくなったのである。

「井戸」の美しさはもう知っている。どこが美しいのかも心得ている。それ

等の茶碗が有つ見処さえ数えている。一つ一つに名称をさえ与えている。進

んでは歪みにも傷にも又とない景色を感じている。美しい茶碗の姿が目前に

ゆらぐ。こんなにも美しいものを吾々でも作りたいではないか。細かな見方

や強い愛撫や燃える情熱が「楽」へと進んだのである。ここまではよい。だ

がここから先に一つの悲劇が起こるのを感じていたろうか。

 生まれた「井戸」の美しさを、今度は作り上げようというのである。見処

を考えて出来た茶碗では無いものを、今度は見処ばかりで組立てようという

のである。高台を工夫する。茶だまりを準備する。それ所ではない。歪みを
              ヘラ
つけてみる。傷を与えてみる、篦目を入れる。釉をたらしかける、これでも
              トモツギ
まだ物足りない。一旦こわして共著をやる、呼び著をやる、等々。ここまで

来るのである。この心づくしは嬉しい。併し見ることと作ることとをここで

ごっちゃにする。是で作れると思うのである。否、是で出来た茶碗こそ本当

の茶碗であると思う。見処も何も識らずして出来た「井戸」の見処と、是が

同じだとどうしていうのであろうか。生まれたものと作ったものとは違う。

自然が守るものと、人間が工夫するものとは違う。「井戸」の見処は決して

「楽」の見処とはならぬ。見処で作れば、元の見処は一つも無くなって了う

であろう。読者よ、あの茶人好みだというでこぼこしたわざとらしい形に、

渋みや静けさがあろうか。あり得ようか。実は「楽」ほど派手な茶碗はない。

わざとらしい渋さは茶器への冒涜ではないのか。醜さそのものではないのか。

「楽」は日本の茶器にまつわる凡ての醜さの発端である。「井戸」の前に何

の面目があろうか。


   十五

 だから和物でよいのは、作為の少ない窯である。「茶」に発しても「茶」

に囚えられずにすんだ品である。作為を忘れて以後の茶碗である。「楽」に

比べるならば如何に「伯庵」の方が本格であろう。「井戸」に近づいている。

同じ瀬戸でも志野には却ってよい茶碗が少ない。作為が激しいからである。

唐津の或ものはよい。篦目や、渦巻や歪みの無いものはよい。真面目だから

である。素直だからである。そうしてそれ等の凡ては無銘である。在銘であ

れば殆ど頼みにはならぬ。人は仁清の如きをやかましく云う。併し彼は二義

三義の陶工に過ぎぬ。彼の世界と佗びと何の縁があろうや。彼の茶碗は月並

な婦女子の弄びで沢山である。歯牙にかけるほどのものではない。乾山と雖

もその陶技は素人に近い。彼は絵画の乾山としてで充分である。「井戸」の

前に彼の茶碗は児戯に等しい。

 恐らく今後和物でよい物があれば、寧ろ茶碗として作られなかった茶碗の

中に見出せるであろう。うどん鉢や蕎麦掻碗やそれ等の下手な品々の中には

拾える物が必ずやあろう。それ等の物は「井戸」が生まれたのと、近い道を

踏んでいるからである。

 若し又優れた作家が出るとしたら、もはや「楽」や「仁清」の程度には止

まり得ないであろう。作為の罪を識りぬいたその智慧から発足するであろう。

どこまでも自然を活かす道へと進まねばならぬ。作物の要諦は自然より更に

自然なものを示すことにある。だから自然を煮つめる仕事だとも云える。そ

のためには作為の罪と闘いぬき、美の本道へと立ち戻らねばならぬ。彼等は

あの朝鮮の物に見られる正しい格に、もう一度茶碗を仕立てねばならぬ。そ

うして派手な仕組みを越えて静かな安らかな円かな作へと帰らねばならぬ。

 大和茶碗の歴史は寧ろこれからである。高麗茶碗の歴史がここまでであっ

たのと向い合う。「楽」は歴史らしい歴史とは思えぬ。「楽」で日本を誇る

ことはもう棄ててよい。茶碗は「楽」に止まるが如きものであってはならぬ。

それだけ未来に委ねられた仕事は大きい。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『工芸』 67号 昭和11年】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第6巻『茶と美』春秋社 初版1972年)

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